IT立国という言葉がある。
文字通りITつまり情報技術によって国の経済を発展させようということ。
日本でもたまにこの言葉をきくけれども、あまり真剣な響きとして聞こえてこないように思う。
日本では随分昔から多くの企業がIT化に取り組んでいる。
今や机の上には1人1台PCがあり、業務連絡、顧客との連絡はメールですますなんていうのは普通で、そういう職場環境を第三者が目にしたところで、「おたく、進んでるね」なんて言われる時代でもない。
このようにずっと前からITに慣れ親しんできた日本ではあるが、我々はその恩恵を受けて仕事をする立場に甘んじているだけで終わっているのではないかとしばしば思う。
その環境を土台に、次の時代を切り拓くような新しいモノを生み出すことには未だ成功していないのが現実ではないだろうか。
かつて独創的な製品で自動車、オーディオ製品のそれぞれの分野において世界を牽引していたトヨタやソニーのように、日本のIT企業が世界でトップランナーを演じることは今はない。
日頃目にするロゴ、グーグル、アップル、マイクロソフト、オラクル、アマゾン、フェイスブック...、すべて外国の企業だ。錚々たる顔ぶれである。
なぜ、世界を変えるようなITのサービス、製品や技術はいつも海外から出現するのか?
この問いにはズバリ正解はないかもしれない。
しかし、要因を探ってみることは必要なプロセスかもしれない。
日本と米のITの大きな違いとして真っ先に浮かぶのは業界全体の指向だ。
日本のITはまず品質重視であり厳しい品質基準をクリアすることは当たり前で、全てはバグのないソフトウェアをリリースし、不具合によるシステムダウンのないシステムを生み出すことに収斂する。
一方、米のITはビジネスツールとしての位置付けに徹しており、高品質を追求するよりも素早く市場に投入しシェアを先取りすることが優先される。
その違いは歴然としているがゆえに、米のビジネススタイルには驚嘆することも多い。
そして、近年”ガラパゴス”と呼ばれる国内市場最優先のスタイルも要因としてあげられるだろう。
かつてNTTドコモのiモードは、日本が独自の発想と技術で世界に類をみないすばらしいシステムを作り得ることを証明した例だ。
携帯電話でインターネットが使えて、オンラインバンキングやゲームなどもできた。まだせいぜい携帯電話ではテキストベースでのショートメッセージのやり取りをしていた世界の標準からみればこれは革新的だった。
しかし、海外の携帯電話キャリアとしてのサービス展開は当初からドコモの想定になく、国内の市場を席巻するところで市場が飽和せざるを得ず、今や過去のものとなってしまった。ドコモとは「anywhere」だが、この場合日本国内の「どこも」だったわけだ。
携帯電話という製品自体のオリジネイターは外国であっても、サービスとしておおいに展開させたという事では世界のトップを走れる可能性はあったのだ。
国内での他社との差別化を意識するあまり、トップシェアを背景にした独自路線を追究したことが結果的に自分の首をしめてしまった。
品質70点くらいでも、サービスの新展開を海外の地に積極的に求めることの意義は大きい。
1980年代から一般にコンピュータが普及していた米では、1990年代のコンピュータ普及率は日本その他の国を大きく引き離している。
早くからコンピュータは”あって当たり前”のものであり、これを使っていろいろなビジネスを模索する若者が多く現れるのは至極当然な流れであったといえる。
21世紀になり、こうした土壌からGoogleが、FaceBookが、Twitterといった収穫が得られたわけだ。
この点。1995年のWindows95の登場まで一般的にはコンピュータは手に負えず、マニア向けの高価なオモチャであった日本は明らかに後進国であり、今ようやく意識の面では当時の米に追いついたのではないかと思う。
日本からもザッカーバーグのような起業家が現れる時代はもうすぐ来るのかもしれない。しかし、その頃には今ある市場は成熟しているであろうし、また新しいビジネスが成長してライバルの顔ぶれも変わっていることだろう。
個人あるいはコミュニティで得たものを公にして社会的な貢献をしようという姿勢の違いがある。
海外では学校で行うボランティアなどの活動を通じて社会に対してできることは何かという考え方が子供の頃から身に付いている。特に日米では活動の種類も多さも違うし、日本でのボランティアはそれほど意識としては高くないといえる。
こうした意識はたとえば大企業のトップが資産をポンと慈善団体に寄付したりする行動に垣間見ることができる。彼らにとって個人と社会は不可分であり、個人的に得たものを社会に還元すること、つまりは循環なわけで、これは不自然なことではないのだと思う。
コンピュータの世界は実はこうしたボランティアの精神が根強い世界でもある。物理的に工場でラインを動かし製造するハードウェアはともかく、多くの優れたソフトウェアは無償で利用できる。多くの時間と資金を必要とするソフトウェアを作るより、同等の機能を備えた無償の完成品があるのなら、これを使わない手はないと考えるのが普通だ。そしてこれらソフトウェアはあらゆる種類の分野に及び、その世界は今や無限に広がっている。
サービスは共有物であり、公にして人の手を借りて成長してこそ意味があるという思考、また、サービスは個人や企業の所有物であり、対価を支払った人がその恩恵を蒙ることに意味があるという思考。これはまったく異質なものである。いうまでもなく前者が米を筆頭とする海外のサービス、後者が日本のサービスのことだ。
以上で触れた日本のITへの取り組みは観念的にはかなり後手に回っているといわざるを得ず、ここから将来革新的なイノベーションが生まれる土壌が出来ているとも言い難い。まず教育の現場から情報化のノウハウをしっかり身に付けて底上げを図る仕組みの構築が重要視されるべきだと思う。
子供にコンピュータやインターネットは悪影響があるからという反対意見もあるだろうが、そのような懸念でこれからの百年の計に遅れをとる結果になることの方が損害は大きいだろう。暴力やポルノや麻薬など悪質なものは毒草のように野原に勝手に生えているわけではない。それを子供に与えるのは常に大人の側である。ならば大人は優良なものを与えることだって可能なはずだ。その努力は最大限すべきだろう。
そうして以前ならITの世界にン十年のベテランしか達し得なかった知識を持った恐るべき若者が巷に溢れるようになる。そして、「何か面白いことしようぜ」となったときに驚くような成果を目にすることができるようになるだろう。
これが、私の思うIT立国の姿だ。