今日はうちの4歳のチビを連れて外に遊びに行ってた。
でも、そもそも天気予報は雪→雨。しかしどうも何も降ってきそうにない。
どうしようか、行って降られてもなあ。。。と思ったが思い切って出かけてみた。
うちから北に自転車で30分くらい走ったところに少し大きい公園がある。
かねてから希望していただけに、天気予報のせいか人気もまばらな公園を走り回るチビ。
依然満天の青空。
どうやら天気予報は外れたようだ。気温は確かに低いが。
途中、iPhoneでTwitterを見てみると、どうやら全国的に大雪で大変な様子。
しかし、私の頭上には冬の透き通るような真っ青な空。
「こちらは激しく降っています。」というツィートを見ながら
こういうコミュニケーション手段っていうのはちょっと昔にはなかったんだよなあと思った。
震災のときもそうだった。
私は京都にいて、たまたま見ていたタイムライン上を「揺れてる!」「地震だ!」という言葉がざわざわと流れ始めたのだ。
最初はなんだいつもの地震じゃないかと思ったのが次第に事態の深刻度を増していった。
そして、しばらくして自分の足元もユサユサと揺れだした。
この間時間を計ってないが、結構な長さに感じた。
しかし、それはみな自分の足元が、オフィスが、家屋が揺れているのを感じて放った言葉なのだ。
それはショーでもなんでもなく紛れもなく現実であった。
やがて津波の襲来を告げるツィートをみて戦慄した時には、
すでに選択の余地もなく私もその当事者と同じ時間軸にどっぷり呑み込まれていた。
私が果たして傍観者となったのはたまたま私の所に波が押し寄せてこなかっただけのこと。
その時感じた。かつてこのように遠隔地で起きていることが同時に共有できる手段はなかった。
これからは災害や戦争でさえネット越しに動画や文字情報でリアルタイムに共有する時代になる。
また政治家や著名人の失言はあっという間に広がる。
収束させるタイミングを逸すると命取りになりかねない。
ある意味恐ろしい時代の到来である。
私たちはとんでもない怪物を自分たちの庭に放ってしまったのかもしれない。
とりあえず、今はこの怪物かもしれない奴とうまく付き合う方法を模索するしかないだろう。
すくなくとも、私はそうする。
そうこうしてるうちに今日どこかでやはり空を見上げているであろう人たちの呟きは途絶えた。
そして子供はまだ走り続けていた。