
私達が暮らす現代の社会では、怪物というのはあくまで非科学的な存在であり、 実際に話題になることは少ない。
むしろ超人的な人物や業績に対し賞賛として使われたりすることが多く、この ニュアンスは昔とは随分異なっているかもしれない。
18〜19世紀のスペインの画家ゴヤの版画に「理性の眠りは怪物を生む」という作 品がある。
創作しようと苦悩するが如く頭をかかえるゴヤ。その背後から梟や蝙蝠の姿を借 りたおぞましい怪物が現れ出るというものである。
この怪物は古く迷信に満ちた時代ゆえのモチーフなのだろうか。
ふとそれを見て、私達にとっての怪物とは何だろう、そんな思いがふと沸き起 こった。
芸術家であり批判者、宮廷画家であり自由主義者、ゴヤの生涯はどことなく矛盾 を感じるものである。
彼は当時のカルロス4世のサロンの宮廷画家であり、その活躍ぶりはベラスケス とも並び称されるほどのものである。
しかし彼の眼は鋭く人の愚かさを覗きこみ、国王一家を愚か者の集団として描写 したり、フランスによる侵攻での戦争の悲惨さを訴える絵を残してい る。
これは華やかな宮廷画家としての活動から幅を広げるなどという話ではなく、鋭 い批判精神を露わにしたものである。
後にこうした二面性のある活動が仇になり彼は自由主義者の弾圧のターゲットに なった折にフランスへ亡命している。
特にその亡命までの数年間、「聾者の家」と呼ばれる別荘で描いた14枚の「黒い 絵」といわれる作品群がゴヤの作品のみならず西洋絵画の世界におい て異彩を 放っている。
私はその中でも有名な「我が子を喰らうサトゥルヌス」という絵を観る度に激し く戦慄する。
裸の男が自身の子供を頭から齧りつき食い殺している絵である。
男は理性を失った表情をし、その眼は泣いているようでもあり恍惚としているよ うでもある。
人は最も愛するものでさえ、平然とその手で滅ぼすことができる。 ー ローマ神 話のサトゥルヌスをモチーフにしているが、この恐ろしい絵は人の恐ろしくも愚 かな業そのものである。
これほどに人の心の奥の闇を剔る芸術作品を他に知らない。
この頃には大病を患って聴力を失っていたといわれているが、これらの絵は狂人 を装って製作されたともいわれる。
さらに晩年にも普通の肖像画を残している点、偽装であった可能性は高い。
つまりゴヤは常に理性を保ち続け、批判精神をベースにして創作していたといえる。
しかし身の危険をかわすための隠れ蓑もしっかりと周到に用意しており、そのイ メージが我々には謎を感じさせるのだろう。
有名な「裸体のマハ」にしても通常飾ってあったのは「着衣のマハ」であり、あ る仕掛けにより親しい人にだけ「裸体」版が開陳できるようにしていた などの エピソードもあることから、それは大いに考えられるところだ。
つまりすべて確信犯なのだ。
さて、そんなゴヤがいうところの「理性なき」ものとは何か。
「理性の眠りは怪物を生む」が主張するところは、理性なき創造の無意味さである。
人間は理性を以てよく創造物を芸術を始めとする智慧の発現とすることができる が、そうでない創造は単なる怪物であるという。
この批判の対象になっているのは、実のところ理性に欠ける存在に見える暗愚な 王家の人々、そして彼らが統治するスペイン自体であったのかもしれな い。
隣国からナポレオンが侵攻した時に、フランス兵が丸腰のスペイン兵を銃殺する シーンを描いた作品。
ゴヤの眼にはそれはどう映っていたのか非常に興味深いではないか。
19世紀のスペインから変わって現代の我々が住む日本。
この国は今非常に危険な状況にあるといえる。
隣国との関係を計画的に悪化させ全面戦争に持ち込もうとするかのような動き、 福島の原発事故がまるで存在しないかのような原発依存体質の温存、国 民の暮 らしを直撃するような収奪に近い増税、国際協定の推進。。。
どれもが国民の意志を無視した独断専行であり、許されざる暴挙なのだ。
しかもその政府を率いる政党が選挙で圧勝するなど、異変ともいえる事件が起 こっている。
海外からみればそんな政府を我々日本国民は支持しているということになる。
それこそ我々が理性を以て将来を考えるという選択肢を放棄しているその事の証 ではないかと思う。
これは自ら祖国を棄てる行為なのだ。
思考停止はこの期に及んでは確実に命取りになるという事を認識する必要がある。
こういう流れの先にある世界、それこそが我々の”怪物”なのだ。
私は怪物には遭遇したくないと思う者である。