先日、数年ぶりにヴェトナムを訪れて気づいたことがあった。
この社会はかなり速いスピードで消費社会に変貌している。
消費が増えて経済が活性化すればさらに豊かになれるわけで、これは歓迎すべきことだ。
富めば暮らしぶりに余裕が出るのか、路上の交通マナー一つとっても以前より秩序が感じられるようになった。
変な話だが、都市部ではバイクが洪水のように走っているサイゴンでは、数年前までヘルメット着用義務がなかった。
たとえば父ちゃん母ちゃん子供たちで4,5人で一つのバイクに全員ヘルメットなしで乗っていたり、交通安全を考えた場合にはあり得ない光景が寧ろ普通であった。
今は殆ど全員がヘルメット借用だし、無茶な家族全員での乗車などもあまり見かけなくなった。
信号機というものも殆どなく、十字路でのバイクの大群の行き来はもはや交通というより弱肉強食という言葉を連想させるものだった。
それが各所に設置された信号機の制御に皆が従い、赤信号なら皆ちゃんと待っている。
そうしたインフラの正常化をうけてか、公共の乗り物である路線バスが活発に運行するようになり、交通事情は大きく変化しているようである。
サイゴンのど真ん中に地下鉄の駅を作りサイゴンの街を縦断する路線を5年くらいかけて建設中とのことである。
これに関して住民は冷ややかというか冷静である。「5年といって5年でできると思えない。だってここはヴェトナムだ。」と異口同音に言う。
メコンデルタに近い決して固くはない地盤だと思うが地下鉄を掘るだけしっかりしているのか、部外者なりに心配だがかつて海辺であった東京でもどれだけの地下鉄が地下に走り回っているかを考えれば問題ないのかもしれない。
街は再開発が進みスラムのようだった場所がきれいな景観に変わった。
大手のショッピングモールなどが進出して外国人ではなく一般の人たちで賑わうようになった。
これは喜ばしいこと のはずだ。
こんなサイゴンの現状を見て何とも表現しにくいけれども、何故かどことなく寂しさを感じた。
以前感じられた強烈な臭気にも似た生々しさが感じられないのだ。
地方に行けばまた違うのだろうが、サイゴンは間違いなくアジアの大都市への道をひた走っている。
その反映の影で逆に失うものがあるとすれば、それこそが「サイゴンらしさ」の部分かもしれない。
経済発展の影で貧富の差が広がり、貧しい人は一生チャンスが得られない社会。
せいぜいスリ引ったくり程度だった犯罪がより高度化し、一見普通に見える凶悪犯が街を跋扈する社会。
効率、利益を追求するあまり人の心や繋がりを軽視する社会。
我々日本人は高度成長の果てに社会がそれまであった人の心の豊かさを、人の優しさを、そして人の繋がりを捨てる経験をしている。
一見暮らしやすくなったように感じても、その底流に流れている人としての大事な何かを失ってしまっている。
発展の影で起きること、私たちがこの数十年日本で体験してきたことがまさにヴェトナムでこれから起きようとしているように思えてならない。
ゆえに寂しく感じるのかもしれない。
日本が失って取り戻せないもの、それも何よりも大事なもの。
豊かさを享受する代わりにそれを失わないでいてほしい、そう願うばかりだ。