最近テレビ番組を観ることが少なくなった。
だからといって暇なのかといえばそうでもない。
では、かつてテレビを観ていた分の時間はどこへ行ったか。
おそらくインターネットに接続して何かをしている時間に化けている。少なくとも私は間違いなくそうだ。
既にテレビは情報媒体としてのその使命を終えていると思う。
我々が一方的に情報を受け取るだけの立場であるならば、テレビもラジオもインターネットには引けをとらない。
むしろ黙っていても情報が垂れ流しになる分、効率的かもしれない。
他方向のアクションによって情報の行き来が発生することが当たり前のネットの世界が主流になれば、もうテレビの時代に戻る事はないだろう。
もはや我々には自分に関係ない情報に煩わされる時間はないのだ。
こうした情報媒体をめぐる時代の流れが家電としてのテレビの市場を崩壊させている主原因になっているのかどうかは私にはわからないが、その一因には違いないと思う。
テレビと同じく今その存在意義が問われつつある媒体として新聞というものがある。
新聞はテレビよりももっと長い間情報媒体の世界を生き抜いてきただけに、過去新聞がどのように情報操作に関与してきたかも我々はよく知っている。
特に世界が戦乱に揺れた時代には新聞は戦争を是認し鼓舞するための国家の思惑に大いに加担させられた。
日本でも大手の新聞が数誌あるが、同じ出来事を書いていてもその論調なりが大いに違うことがあるが、これはその元々の新聞が持つバックグラウンドが各イデオロギーに近いスタンスを持ち続けており、今なおそれに左右されていることが多い証拠である。
日本では民間のテレビ放送局はこの新聞社と資本でつながっているから、当然基本的に新聞と同じスタンスをとる。
さらに民間放送局はスポンサーからの資金によって番組を制作している事情で、スポンサー企業の意向にあわない内容は取り上げない、あるいは事実かどうか怪しいところまで偏った情報を流していることがある。
昨今の原発事故の状況など、日本国内の報道は海外のメディアと違う内容を報道し続けている。
私は高線量の放射能がある地域を安全だという立場は全く理解できないが、日本の政府とその御用メディアとなっているかのような新聞・テレビはこうした「安全だ」といった情報ばかりを流している。
原発事故についてインターネットではむしろ前者とは逆の意見が多いのは、こうしたメディアの圧力とは無関係だからだ。
しかし、そのインターネットももはや安住の地ではない。
かつて民主党が推し進めようとした人権侵害救済法案は自民党に政権が移ってからも人権委員会設置法案という形でくすぶっており、その時その時の政権が国民の言論を統制することに腐心していることがよく分かる。
これはいよいよ情報の中立的な媒体として機能していたインターネットもテレビと同じ運命をたどるべく杭が打たれようとしていることを意味する。
政府は三権の他に国民の言論を監視する機関を作りそこで我々のネット上の発言をチェックする。
また、マイナンバー制は個人をもれなく一意に識別するためのインフラ作りだと考えればストーリーがもっと具体的になるだろう。
我々が無関心でいることは間違いなく自殺行為であることは間違いない。
これから我々が向かう先に何があるのか、我々自身がよく考えないといけないようだ。