ナザレのイエスの弟子にペテロという人がいる。
彼はもともとシモンと呼ばれておりガリラヤで漁師をしていたが、ある時イエスに誘われ弟子となる。
イエス教団において弟子の筆頭格として頭角を現し、イエスの死後も彼の意志を継いで布教を続ける。
ときの皇帝ネロによる熾烈なキリスト教弾圧のさなかにローマで捕らえられ殉教した。
ペテロは初代のローマ法王となり、ローマの彼の墓の上に建てた教会はサン・ピエトロ大聖堂と呼ばれる。
これがペテロの略歴だ。あっさりとしたものだ。
しかし、彼は名高いローマ・カトリック教会の創始者といわれる人である以上に妙に気になる処の多い、そんな人物でもある。
まず彼は漁師の出身であり、一種の特権階級であったラビなどの住む世界とは無縁ないわば蔑まれた階級の人だ。
そうした境遇の人間であればこそ、同じような境遇から身を起こしたイエスの元に身を寄せることになったのは間違いないだろう。
しかし、ペテロはイエスの生前には篤い信仰の人というより非常に人間的な弱さを持つ「人間くさい」奴として福音書に現れる。
そうした資質の人間がこの教団にコミットしていたことは、実際には宗教的というより非常に世俗的な別の目的を持つ集団として機能していたグループであったことを暗に語っているように思える。
当時、ユダヤのかつての王国は壊滅しておりローマ帝国の属州となりバビロン時代からのかわらぬ被支配民として抑圧された統治に少なからず不満を持つものがいた。
イエスの時代を少し遡る150年ほど前、当時シリアからの独立のためユダ・マカベアが反乱を起こした。
その戦いはまさに民族の存亡をかけての戦いであったがその結果成立したハスモン王朝はあっさりローマに屈し国土がローマの属国となるに任せていた。
熱心党と呼ばれる一部の人たちはそうしたハスモン朝やローマの統治に対する不満分子のグループであり、今でいう過激派のようなものである。
ユダヤ律法の形骸化に対する宗教改革の騎手として注目を集めていたナザレのイエスを世俗の世界での闘争をも牽引するイデオローグとして担ぎ上げたわけだ。
武闘派としてのペテロはその熱心党のメンバーであり、剣を振るうことも少なからずあったようだ。
それはゲツセマネの祈りのあと、イエスを捕縛に来た役人に剣で切りつけその耳を切り落とすというエピソードに垣間見れる。
イエスが宗教家としての死を覚悟した声明を行ったとき、ペテロはイエスに生きながらえるようイエスに反論し、逆に激しく窘められている。
これなどはいかに彼が世俗の救世主としてイエスをみていたかを表すものであり、この点宗教家としての律法学者やパリサイ派との対決の場であることを十分意識していた上に、その対決の場を自ら演出したユダとは対極の立場をとっている。
新興教団でもあり過激派でもあったイエスの教団が一旦瓦解するのはエルサレムにおけるイエスの磔刑という惨たらしい結末によるものだ。
イエス処刑の際、ペテロは一番弟子のポジションでありながら3度もイエスとの関係を否認するのだ。
グループのトップが捕まって気が動転したのだろうか。
政治的な目的による問題ではなく、ユダヤ人の司祭たちとの宗教論争による遺恨によりイエスが訴えられたという事態にペテロは本気でそう云ったのだと思う。
なぜなら自分は宗教活動ではなく政治活動をしていたのであって、あっさり捕縛され裁かれるままになるなど、もっての他だったのだ。
「彼は私たちを裏切って勝手に死ぬ。そんな人はもう自分たちのリーダーではない。」
というのが正直な気持ちではなかったか。
この時点ではリーダーのとばっちりで危険な目にあうことなど考えもしていない。
だがこのあと、突如ペテロは本格的に宗教家として目覚める。
福音書ではイエスの復活をみた弟子達がその神性によって感化されたように解釈できるけれども、本当のところそれは物語の世界の話に聞こえて仕方がない。
ラビは生前復活すると宣言したではないか。だから本当に生き返ったことにすればいいんだ。と、頭の回る誰かが復活を演出したとも考えられる。
これはやはり重鎮でありイエスの妻であったともいわれるマグダラのマリアあるいは議員でもあったイエス支持者のアリマタヤのヨセフによるものではなかったかと思う。
ともかくさまざまな思惑で寄せ集まっていた弟子たちにはこの話の効果はテキメンだった。
師は本当に神であり救世主であった。。。
散り散りになった弟子たちは再び集まり活動することを誓ったのだ。
この弟子たちの復帰、そしてこれと前後して活動を始めるパウロの活躍が初期キリスト教団の起こりである。
イエスの教団はイエスの弟が建て直し引き継いでいくことになったが、他の弟子たちはおそらく教団本部との過度な接触を避けるため各地に散らばり布教をすることとなった。
イスラエルの地にとどまらず地中海、小アジアの各地に散開して活動をしたのがのちのキリスト教の繁栄の元となったのは卓見であったといえる。
そしてこののち布教先としてペテロが選んだのはローマ方面だったようである。
ローマでの布教活動はいわば敵地真っ只中のレジスタンス活動のようであっただろう。
ネロ帝はキリスト教信者迫害の嵐をローマに吹き荒れさせ、ペテロも身の危険に晒されたため一旦ローマを離れることにする。
ここでペテロは決定的瞬間を迎える。
アッピア街道で反対方向から歩いてくるイエスと出くわすのだ。
驚いた彼がかつての師にこう尋ねる。
「Quo Vadis, Domine?(主よ、どこへ行かれるのですか?)」
イエスはこう答える。
「お前がここを去るというなら、私はローマでもう一度十字架にかかろう。」
この言葉を聞き、ペテロはローマに逆戻りした。
仮にこのエピソードがフィクションであったとしても、エルサレムでのイエスの処刑のときには逃げた自分をここで振り返り、自分は本当にローマを去って安全を図るべきか、そのことを考えたことは間違いない。
漁師として育ち、熱心党のマインドも持ちながらイエスとともに歩いた日々がその心を過ったことであろう。
そしてここで死ぬことが教団の未来のためには良いのではないのかと考えた。
この「主よ、どこへ行かれるのですか?」という言葉によって彼の宗教家としての人生、そして人として道を失い、迷い、また迷い続けた生涯を成就することになったのだ。
果たしてペテロはローマで捕縛され十字架にかけられた。
その時の十字架は師と同じ向きではおこがましいとして逆さに磔になったという。
福音書や残された文書に垣間見るペテロの人生からは、実に人間臭い一人の男が見えてくるのだ。
ペテロがローマで殉教したという話はずっとフィクションだといわれてきたが、1939年のサン・ピエトロ大聖堂の地下墓所の調査でペテロと思われる紀元1世紀ごろの遺骨が発見された。
ペテロがサン・ピエトロの下に眠っているという伝説は真実だったのである。