さきほどふと考えたことがある。
タブレット端末は学校にとって代われるか?
学校は教育の現場としての機能があるが、昨今その教育の現場も様変わりしつつある。
少子化によって就学年齢の子供たちに対して学校が余る傾向は年々激しくなっているが、必ずしもそれによって学校の質が上がるわけでもなく、むしろ 多発するいじめ問題や教師の不祥事など顕在化している現状をみれば寧ろ低下しているのではと疑いたくもなる。
もちろん学校だけではなく家庭の状況もかつてとはうって変わって複雑である。
長引く不況の影響はどこに顕著かといえば、家庭にもっとも大きな影響を与えているといっていい。
賃金は上がらないが、税金や社会保障の額は上がり実質的な収入は年々減る傾向にあり、しかも失業者が多い世の中ともなれば家庭の中で親が経済的に不安を抱えたまま生活していることはいうまでもない。
両親がイライラすれば家庭の雰囲気は荒み結局子供たちは安心して暮らせない。
ましてやアメリカのように学校で銃を乱射するなどという事件がたびたび起こるようなら、現実的な危険も大きく尚更に学校とは何かと問わねばならなくなる。
そうした不安な子たちが集う不穏な学校生活の中、子供の生命が脅かされるような事態になるくらいなら学校に行く必要などないのではないか、そう思う人がいても不思議ではないだろう。
現に私もたびたびそんなことを考える。
授業は教室に行かなくてもネット環境とタブレット端末があれば家でもどこでも受けられるはず。
教師はWebCAMに向かって授業をし、生徒はネット越しにそれを観る。
ただ観ているだけなら教育TVと同じだが、授業ごとに出される課題に対して生徒が回答を送信しておけば、あとで教師がチェックし個別に対応することも可能だ。
この際、どのように回答を導いたか、そのプロセスは把握できない。
バックで親が教えているかもしれないし、ネットで検索しているかもしれない。
そもそも学校側としては授業自体に参加しているかどうかは厳密には把握できないが、現実と比較してたいした問題ではないだろう。
さて、本題に戻る。
そういう教育のスタイルで問題はないか。
学校が勉強をしに行くだけのものであればタブレット端末は見事に代わりを努めてくれそうだ。
それに従来限界のあった次のようなケースには有効に機能するだろう。
・離島や山間部など近くに学校がない地方の児童
・身体に障害があり登校に困難がある児童
・近隣に通える外国語の学校のない帰国子女
しかし、上記のケースにあてはまらない人たちにとってはいうまでもなくこれは 教育の場としての学校というものを否定することに相違ないだろう。
インターネット大学などが実際に存在する世の中にあっては、元来義務教育の範疇となる7~15歳の児童対象にそうしたネットの学校を模索する動きが出たとしてもおかしくはない。
しかしだ。
学校の存在意義はそれだけではない。
従来の学校にある集団生活での協調性、コミュニケーションによる学びの場としての学校の機能がもう一つの柱として学校を存続ならしめるものだ。
学校で習ったことは思い出せなくても学級活動、遠足、運動会、その他の課外活動などのことは忘れられないという人は多いのではないだろうか。
つまりその部分は今のところネットがあろうがタブレットがあろうが代役は務まらない。
この意味合いにおいては旧来の学校はまだまだ大きなファシリティたりえる。
はっきりいって勉強は教室でなくてもできる。
学校はそれ以外の、生きる上での問題解決能力を身につけるための機関として特化するべき時期なのではないかと思うのだ。
たとえば見知らぬ土地で何かを探すミッションとか、実際に物を作って売って商売の仕組みを体感するとか、そういう学びである。
いま、学校は崩壊しているのではなく、生まれ変わろうとしている。
私はそう思いたい。
タブレット端末は学校にとって代われるか?
学校は教育の現場としての機能があるが、昨今その教育の現場も様変わりしつつある。
少子化によって就学年齢の子供たちに対して学校が余る傾向は年々激しくなっているが、必ずしもそれによって学校の質が上がるわけでもなく、むしろ 多発するいじめ問題や教師の不祥事など顕在化している現状をみれば寧ろ低下しているのではと疑いたくもなる。
もちろん学校だけではなく家庭の状況もかつてとはうって変わって複雑である。
長引く不況の影響はどこに顕著かといえば、家庭にもっとも大きな影響を与えているといっていい。
賃金は上がらないが、税金や社会保障の額は上がり実質的な収入は年々減る傾向にあり、しかも失業者が多い世の中ともなれば家庭の中で親が経済的に不安を抱えたまま生活していることはいうまでもない。
両親がイライラすれば家庭の雰囲気は荒み結局子供たちは安心して暮らせない。
ましてやアメリカのように学校で銃を乱射するなどという事件がたびたび起こるようなら、現実的な危険も大きく尚更に学校とは何かと問わねばならなくなる。
そうした不安な子たちが集う不穏な学校生活の中、子供の生命が脅かされるような事態になるくらいなら学校に行く必要などないのではないか、そう思う人がいても不思議ではないだろう。
現に私もたびたびそんなことを考える。
授業は教室に行かなくてもネット環境とタブレット端末があれば家でもどこでも受けられるはず。
教師はWebCAMに向かって授業をし、生徒はネット越しにそれを観る。
ただ観ているだけなら教育TVと同じだが、授業ごとに出される課題に対して生徒が回答を送信しておけば、あとで教師がチェックし個別に対応することも可能だ。
この際、どのように回答を導いたか、そのプロセスは把握できない。
バックで親が教えているかもしれないし、ネットで検索しているかもしれない。
そもそも学校側としては授業自体に参加しているかどうかは厳密には把握できないが、現実と比較してたいした問題ではないだろう。
さて、本題に戻る。
そういう教育のスタイルで問題はないか。
学校が勉強をしに行くだけのものであればタブレット端末は見事に代わりを努めてくれそうだ。
それに従来限界のあった次のようなケースには有効に機能するだろう。
・離島や山間部など近くに学校がない地方の児童
・身体に障害があり登校に困難がある児童
・近隣に通える外国語の学校のない帰国子女
しかし、上記のケースにあてはまらない人たちにとってはいうまでもなくこれは 教育の場としての学校というものを否定することに相違ないだろう。
インターネット大学などが実際に存在する世の中にあっては、元来義務教育の範疇となる7~15歳の児童対象にそうしたネットの学校を模索する動きが出たとしてもおかしくはない。
しかしだ。
学校の存在意義はそれだけではない。
従来の学校にある集団生活での協調性、コミュニケーションによる学びの場としての学校の機能がもう一つの柱として学校を存続ならしめるものだ。
学校で習ったことは思い出せなくても学級活動、遠足、運動会、その他の課外活動などのことは忘れられないという人は多いのではないだろうか。
つまりその部分は今のところネットがあろうがタブレットがあろうが代役は務まらない。
この意味合いにおいては旧来の学校はまだまだ大きなファシリティたりえる。
はっきりいって勉強は教室でなくてもできる。
学校はそれ以外の、生きる上での問題解決能力を身につけるための機関として特化するべき時期なのではないかと思うのだ。
たとえば見知らぬ土地で何かを探すミッションとか、実際に物を作って売って商売の仕組みを体感するとか、そういう学びである。
いま、学校は崩壊しているのではなく、生まれ変わろうとしている。
私はそう思いたい。