スガタ・ミトラ:インターネットを介した「学び」は既存の教育を消滅させる
西欧では修道院のような場所を拠点に、目的が布教であったとしても多くの修道 士が街や村へ出向き知識を一般の人たちに広めていた。
これを受けて教育が組織化されたものが中世の大学という形になっていく。
日本でも学校教育というものが公的に開始される以前にも寺子屋などというもの もあったし、封建制の世の中でも朱子学や国学を学ぶ場として主に武家 のため の学校のようなものもあった。
これらは現在のような均一な教育を施すようなコンセプトとは全く違う。
究極の目的は、一部の知識層が独占していた知識を世間に広く知らしめる活動、 つまり知識共有であったわけだ。
平安時代の起源をもつ天台宗はこうした流れと異なり、高度な知識を秘儀のよう に受け継いできた。
しかし多くの僧を輩出するうち、そこから新しい知識共有の形を模索するものも 現れる。
それが日蓮であったり法然であったりその他多くの仏教の新しい流れを作るわけ だが、彼らが果たした役割は一つはやはり秘儀であった天台宗の知恵を 民に分 け与えることであった。
近未来の知識共有はインターネットによって媒介される世界であり、学校の授業 や読書といった旧来の学習行為に対しその役割を多く担いつつある。
今のところその流れは着実なものとなっているように思える。
たとえば、ネットにある一つの情報があるとする。
その情報をどう解釈するかは誰にも規制されるべきものではない。
100人が見れば100通りの解釈があるわけだ。
これは学校の試験問題で唯一の答えを求められているようなタイプの知識とは異 なるものである。
そして、知識の受け継がれ型は今やこうした100人100通りのパターンでそれぞれ が考えるという世界に移行しつつあるわけだ。
そこには恣意的に情報を誘導しようとするあらゆる引力が存在することも事実だ が、それを含めて個人がより多くの情報を集めて判断することも可能な 世界で もあるわけだ。
一足飛びに学校は不要だ、となるわけではないだろうが、教育の現場への影響は 今後顕著になってくるだろう。
これまでのような画一な内容の詰め込みでは対応できないほどの多くの情報が既 に子供たちの中に存在するからである。
現代の子供たちは50年前、100年前の子供たちとは処理する情報量が圧倒的に違 う。それは格段に増加している。
真に生きるための力として必要な知識を得ることが教育の本質であるという面を 突き詰めれば、知識はネットで、力は自然の中で、と学校を否定する方 向に行 く可能性も無きにしもあらずなのだ。
むしろ義務教育のレベルでの教える側のフィルターにかかった画一的なものの見 方というものがある場合には、これは否定的にとらえなければいけない 局面に 多々置かれるのではないだろうか。
スガタ・ミトラ氏の実験はこうした未来を垣間見せるものである。
http://wired.jp/2013/01/02/vol5-sugatamitra/
もともと教育というものが世に現れた発端は、かつての知識人たちが広く知識を 共有するために始めた側面がある。西欧では修道院のような場所を拠点に、目的が布教であったとしても多くの修道 士が街や村へ出向き知識を一般の人たちに広めていた。
これを受けて教育が組織化されたものが中世の大学という形になっていく。
日本でも学校教育というものが公的に開始される以前にも寺子屋などというもの もあったし、封建制の世の中でも朱子学や国学を学ぶ場として主に武家 のため の学校のようなものもあった。
これらは現在のような均一な教育を施すようなコンセプトとは全く違う。
究極の目的は、一部の知識層が独占していた知識を世間に広く知らしめる活動、 つまり知識共有であったわけだ。
平安時代の起源をもつ天台宗はこうした流れと異なり、高度な知識を秘儀のよう に受け継いできた。
しかし多くの僧を輩出するうち、そこから新しい知識共有の形を模索するものも 現れる。
それが日蓮であったり法然であったりその他多くの仏教の新しい流れを作るわけ だが、彼らが果たした役割は一つはやはり秘儀であった天台宗の知恵を 民に分 け与えることであった。
近未来の知識共有はインターネットによって媒介される世界であり、学校の授業 や読書といった旧来の学習行為に対しその役割を多く担いつつある。
今のところその流れは着実なものとなっているように思える。
たとえば、ネットにある一つの情報があるとする。
その情報をどう解釈するかは誰にも規制されるべきものではない。
100人が見れば100通りの解釈があるわけだ。
これは学校の試験問題で唯一の答えを求められているようなタイプの知識とは異 なるものである。
そして、知識の受け継がれ型は今やこうした100人100通りのパターンでそれぞれ が考えるという世界に移行しつつあるわけだ。
そこには恣意的に情報を誘導しようとするあらゆる引力が存在することも事実だ が、それを含めて個人がより多くの情報を集めて判断することも可能な 世界で もあるわけだ。
一足飛びに学校は不要だ、となるわけではないだろうが、教育の現場への影響は 今後顕著になってくるだろう。
これまでのような画一な内容の詰め込みでは対応できないほどの多くの情報が既 に子供たちの中に存在するからである。
現代の子供たちは50年前、100年前の子供たちとは処理する情報量が圧倒的に違 う。それは格段に増加している。
真に生きるための力として必要な知識を得ることが教育の本質であるという面を 突き詰めれば、知識はネットで、力は自然の中で、と学校を否定する方 向に行 く可能性も無きにしもあらずなのだ。
むしろ義務教育のレベルでの教える側のフィルターにかかった画一的なものの見 方というものがある場合には、これは否定的にとらえなければいけない 局面に 多々置かれるのではないだろうか。
スガタ・ミトラ氏の実験はこうした未来を垣間見せるものである。