人間がまだアダムとイブの二人だけしか存在しなかった時、エデンの園には神がその果実を食べることを禁じた「知恵の木」があった。
愚かなる人間は蛇の誘いに乗って神の言葉に反してその木から実を取って食べた。
そのことにより、人間は限りのある生命を持つ生き物となり、エデンを出て男は働き続け、女は産みの苦しみを課せられることとなった。
その実は林檎であるといわれている。
(知恵の木=林檎の木というのはラテン語解釈上の誤解ともいわれる。)
林檎は、童話「白雪姫」において白雪姫が継母である王妃により毒殺される重要なアイテムとして登場する。
この継母はたびたび白雪姫を手にかけているが、姫はその度ごとに誰かに助けられている。
継母に白雪姫への嫉妬心を起こさせ、悪事をするよう煽るのは魔法の鏡である。
そして最後の手段として継母が選んだのが毒林檎であり、これを自ら物売りに身をやつし白雪姫に食べさせることに成功する。
やがて隣国の王子が姫を助けることで形勢が逆転、継母は身を滅ぼすこととなる。
どうだろう。ここで白雪姫の命を繋ぎ物語の最後のクライマックスを彩るアイテムとして林檎以外に適したアイテムはあるだろうか。
かつてアダムとイブがその命のいつか尽きる日が来ることを選択することになった、その林檎が今度は命を繋ぐ立場になっているのだ。
作者の林檎というアイテム選びは物語に微妙な陰影と深みを与えている。
アイザック・ニュートンは林檎の木から実が落ちるのを見て万有引力を発見したという逸話があり、これが今の力学、物理学の起きた端緒であるという。
それ以降の科学の発達を見た後代の人が「ニュートンの見た林檎がすべてのきっかけだった」とこのエピソードにロマンを感じるのは無理もない。
しかし実際のところ、この話には根拠がないという。
「そういうことにしといた方が面白い」という程度の話であったものが広く流布されてニュートンの偉業を大いに脚色することとなったようなのだ。
科学の父であるニュートンはまた別の顔として政治家でもあったし、また錬金術の研究者でもあったことはよく知られている。
錬金術と物理学、17世紀英国の当時の科学の置かれていた状況がある意味よくわかる話ではある。
錬金術は今なお科学の分野としては認められておらず、むしろ白魔術などとの類似点からオカルティックなものとして認識されている。
また、ニュートンにはキリスト教の世界でいえばアタナシウス派批判ともいえる「異教徒的な」発言があったりと、イタリアにおけるガリレオ・ガリレイにも通じる宗教的観点での批判を受けやすい立場にあったことが伺えるのである。
つまり万有引力の発見という偉業に対し、ニュートンが幾分野心家であったこと、怪しげな存在であったことを匂わせる形でそのきっかけを林檎というアイテムが表しているのだと思う。
なぜなら、林檎は神の意志に反する行為の象徴でもあるからだ。
ニュートンの相棒として、林檎というアイコンの発するオーラの強さは思いの他強烈だ。
コンピュータの歴史をひも解くとき、アラン・チューリングの存在を無視することはできない。
天才チューリングは第二次世界大戦前夜のイギリスでナチス・ドイツの暗号機エニグマの解読に関わったことで有名な人物である。
しかし、彼はむしろコンピュータの世界で重要な人物となった。
現在のコンピュータの理論的なモデル化といえる仮想コンピュータを考案したことが後の時代でも語り継がれる偉業となったのだ。
それはチューリング・マシンと呼ばれている。
その理論はフォン・ノイマンに受け継がれ、実際のコンピュータおよびその中で動くソフトウェアとして実現されるに至った。
彼の1954年の死後半世紀以上が過ぎた現在も理論的にはコンピュータはチューリングの考えたモデルのままであることを考えれば、彼の先見性と頭脳の凄さがわかる。
今なお暗号化の技術は軍事機密とコンピュータの世界を繋ぐものであり、チューリングの立ち位置は非常に理解しやすいといえる。
それだけに、同性愛の罪で告発され、数々の業績と名誉を剥奪される形になった後、自宅で不審死していたことに対していろんな憶測がとんだ。
政府の見解は自殺だが、遺族は事故であると主張していたのはやはり彼が「秘密を知りすぎた」危険な存在であったからなのかと考えざるを得ない。
そのチューリングの死体のそばにあったのが林檎であったといわれている。
それも件の白雪姫を見て「魔法の秘薬にリンゴを浸けよう、永遠なる眠りがしみこむように」と彼が語ったことがあり、それを実践したのではないかという噂があるのだ。
何が真実なのかは今となっては誰にも分からないが、その死の謎を神秘的に演出しているのが林檎であることは間違いない。
このチューリングの林檎は、チューリングを尊敬するスティーブ・ジョブズがアップル社を設立するときにその由来としたという説がある。
その真偽もジョブズが他界した今となっては謎だ。
かつてはビートルズのレコードのレーベルとして、今はアップル・コンピュータの製品のトレードマークとして世界のあちこちで存在感を放っている林檎。
ここまで行き着くのに林檎は多くの旅をしてきたようだ。
それにしても、この果実が本当に悪魔の差し出す果実であるかどうかの答えは出ているのだろうか。