先日、私の勤める会社の入っているビルで一斉にトイレ、給湯室の電灯をリニューアルした。
誰かの要望があってそしたかどうかはわからないが、従来手でバッチンとつけていたものを入室すると自然に点灯する方式のものにつけ替えた。
一々壁のスイッチを押さなくてもよくなったから、これはユーザビリティの向上なのだが、今ひとつ評判がよくない。
なぜかというと、それは私たちがトイレなどに入っていると不意に消灯してしまうからである。
入室時にセンサーで感知してから30秒、この時に動くものが検出されないとこの電灯は消えてしまうのだ。
どうだろう、入って30秒。ちょうど用を足すために来た人の殆どは丁度微動だにせずジッとしている頃だろう。
そのタイミングで突然、無情にもあたりは真っ暗になってしまう。
その時点で体のどこかを動かすとまたちゃんと点灯してくれはするのだが。。。
これは先ほどのユーザビリティの加点分を帳消しにするほどのマイナスじゃないのか。
さっそくビル管理に「なんとかなりませんか?」と総務のおねえさんから訊いてもらう。
そして得られた答えは、
「トイレに入ったら動いてください」
いや、違うよ。動かないといけないから、こうして訊いてるんだろ? その答えはちょっと(笑)。
どこかで行き違いが起きたのか、はたまたはぐらかされてるのか。。。
人に何かを尋ねるとき、我々は何かを必ず期待する。
もちろんそれが求めている答えであることを望んでいるわけだが、そうでなくとも何か事態を前進させたいと思っているのだ。
その答えが無意味、または振り出しに戻るような内容だった場合、そもそも期待どおりの答えが得られる保証はなかったにも関わらず我々は落胆するのである。一種の身勝手である。
しかし、この落胆が人の心理に及ぼす影響は大きい。
求めているものが得られないことから諍いが起こったり、さらにエスカレートして以後ずっと互いに憎悪する関係になることだってある。
何を信じるか、何を食べるか、何をすべきか ー 民族や宗教が違えば価値観も違う。そういう相手から思ったとおりの答えが返ってくることの方が珍しいはず。このコミュニケーションの難しさが殆どの紛争の発端といってもいいかもしれない。
なぜこういうことになるのだろうか。
これは我々の知性の仕業だと思う。
こうしたら物事はこうなるだろう。こう言ったら相手はこう言うだろう。
その筋書きは後天的に我々が得た知性が決めるものであって、それは個人個人で持っている秩序であり調和の一部なのだ。
それゆえに、秩序からかけ離れた結果を目の当たりにすると激しく戸惑うのである。
戸惑いが怒りや失望に、怒りや失望が憎悪や殺意に変わると、これはもう手に負えない心の中の怪物となる。
逆に、この怪物がいなければ、我々は何もかも予定通りの刺激のない、退屈な人生を送らなくてはならなくなる。
そういう二面性のある奴なのだ。
この知性という怪物をうまくコントロールしてやっていくと、大抵のことは許容できるはず。知性のタグを外して眺めてみれば、ちょっとくらい、いや、かなり不本意でも笑ってやり過ごせる。
同じ人生なら笑って済ませられる幅が広い方が生きてて楽しい。どうせならそう思うことにしよう。
幸福だから笑うわけではない。笑うから幸福なのだ。(アラン)
楽しく笑うのは誰でもできる。でも辛くても笑うのはどうだろう。
やりにくいからこそする価値があるんだよね。
突然暗くなったトイレで手を振るのもまあ面白いじゃないか。
とぼけた答えをくれたビル管もなかなかいいじゃないか。
世の中結構面白い。