過去に経験したことなどを整理する上で、ブログという場を利用することにした。
この数年で最も考え方を変えてくれたのは生業であるソフトウェア開発の海外発注=オフショア開発である。
その中でも初めて接したヴェトナムでの経験をまず取り上げていこうと思う。最初は嫌々関わった世界ではあったけれど、徐々に感じ方も変わって後には楽しい経験となった。その全てを語ることは不可能だし、ましてや共有することなどできないことは承知している。
誤った記述はできるだけ排除するよう心がけるけれど、内容は基本的に私見なので勘違いが放置されている可能性が多分にある。そこはご覧になられた方々にぜひご指摘いただければと考える。
ヴェトナムオフショア開発のツボ
1 はじめの一歩
それは、あるオファーから
それは2001年の夏も終わる頃、某通信系子会社でSEをしていた私のところにきたオファーから始まった。プロジェクト単位の契約ではないので、ひとつプロジェクトを終えるとこうした形で次の仕事のオファーをもらうわけだ。きくと、内容はこんな感じ
- 従来販売しているパッケージの新バージョンの設計と製造のプロジェクトを開始する。
- 設計は我々がやるが、製造は外注する。
そして外注先は、ヴェトナムという。
まだオフショア開発という言葉も耳慣れぬ頃のこと、我々の心にどんよりと雲がたちこめた。
ヴェトナムといえば四十路過ぎの我々の世代にはアメリカとの戦争でメチャクチャになった頃のイメージが強い。アメリカに続くカンボジア、中国との戦争を経ての世界的孤立の時期も記憶に新しかっただけに、それは生命の危険をも連想させるものでさえあったの だ。
映画「地獄の黙示録」、「プラトーン」あるいは開高健の小説「夏の闇」などで見られる混沌とした世界
それとリアルなソフトウェアの世界とのギャップがどうにも有りすぎて何がどうなっているのか想像さえままならない。これを告げた職場のマネージャ自体、全社的に製造コストを低減する取り組みとしての上層部の意向をきき、プロジェクトの稟議を通すためにその選択 をせねばならない立場であった。その後共に右往左往し苦しんだことから思えば彼自身も何がなされようとしているのかよくわかっていなかったと私は思う。
トップダウンでオフショア参入
当時、コンピュータ、ネットワークなど情報インフラがビジネスの現場で一般化しアプリケーションに対しても顧客からの要求が日に日に厳しくなっていた。顧客からの要求に追随し新しい機能を実装する、また既存機能の品質を向上する、そうした二次的な仕事が増えていくにつれ、それまで比較的大らかに捉えられていたソフトウェアの製造、維持管理にかかる人件費は軒並み膨張する一方となり、利益率の低下が経営的にも見逃せなくなってきていたの だ。
そうした中に、インドや中国でのオフショア開発の例がようやく世間にも聞こえてきており、エンジニアの単価が安いことが何よりも魅力であると俄然 注目を浴びたのである。そこそこの規模の企業になると、対応するかしないかは別として世間の動きには非常に敏い部分がある。さっそく、このような状況で製造原価を下げる取り組みとしてオフショア開発が取締役会で合意に達し全社的にトップダウンで「製造は途上国に外注せよ」となった。これ は当事者であるマネージャにとって、雇われている我々にとっても天の声に匹敵するものであった。
ハードルは高く...
この時点でオフショア開発のポイントはなんといっても開発コストで、とにかく安くあがるというメリットが一人歩きしているかのようでもあった。実はこのプロジェクトが初めてではなく、製造コストを下げるための手段として途上国への外注が有効かどうかそれを試すためのプロジェクトはこれ以前にもあった。現場としてはリスクがあるので、比較的出来栄えの見えやすい小・中規模の業務系のアプリケーションばかりを外注し一応の実績は積んでいきつつあっ た。
しかし、今度は違う。
パッケージ製品の中核でユーザーインタフェースなど見えるものところのない制御システムの開発が私たちのミッションであって、なんとなく動けばい いという曖昧な部分が非常に少なく、またパフォーマンスも重視されるなど設計も製造もそれまでにない高いハードルとなってしまった。
もともとの計画では設計3ヶ月、製造6ヶ月で完成。さっそく我々は要求仕様を確認しざっと工数を積み重ねてみた。
結果、我々は設計の工数と実装規模を概算し、とても予定工期では終わらない、むしろまったく不可能なスケジュールであるという結果を得た。ここでのあるマネージャとのスケジュールに関するやり取りは今も忘れられない。
概算で我々が出したリアルな工数に対して、彼は直近の別のプロジェクトの資料を持ってきてこう言った。
「この実績と比べても計画通りでできるはずだが。」
その直近のプロジェクトには私自身も参加していたが、今回とはまったく内容も異なるプロジェクトであったし、そもそも比較対象にするという時点であまりに強引に思えた。
「そっちのプロジェクトではこれくらいの規模をこの工期で終わらせている。なぜそちらでできて、こちらでできないといいきれるのか。この工数は大 きすぎる。」
工数の根拠、想定しうるリスクなどを述べ反撃したが、彼はまったく引き下がる気配もない。それはそうだろう。最初から反対意見を封じ込めるために席についているのだ。我々もやったことのない性格のプロジェクトのことでリスクをどうしても推定でしか説明できない。そこが弱かった。結局、その提示された工期での完成は約束できないといいながらとにかく走り出そうと言い包められてしまった。
この時の懸念はもちろん後に現実となるわけだけれども、この時点では楽観的に考える人、悲観的に考える人それぞれ思いはあれども前に進む、という 点で一致してしまった。
「我々の知らない場所で言葉の通じない人が我々の製品を作る」
そういう不安の中でのろのろとプロジェクトは船出した。気分は異教の都バビロンに連れ去られるユダヤの民の如しであった。