「シベリアのイエス」の理想郷:ロシアの小さなカルト教団はぼくらに何を語りかけるのか?
http://wired.jp/2014/01/01/vissarion-vol9/ @wired_jpさんから
社会というものの定義は、現代では非常に曖昧である。
資本主義、社会主義など国家体制の形や経済活動のケースを指して大きく「社会」と名付ける場合もある。
格差社会、高齢化社会など世の中の傾向を指して局所的に「社会」とする場合もある。
しかし、そうした「社会」の中には宗教的な世界観で裏打ちされたものも実際に存在するわけで、我々特に宗教的に独特ともいえる感性を持つ日本人にはなかなか理解ができない部分でもある。
過去に様々な宗教が生まれそして成長していったけれども、当初そこに集う人たちは世の中ではマイノリティの立場のものであり、自身の生活や生命を保つことにリスクを感じていたことはほぼ間違いなく、そうした人たちの救済の道として宗教としての姿が整っていた背景がある。
そうすると、数多くの新興宗教が存在する現代の状況というのはまさに宗教を生み出す環境としては非常に優れているといえるかもしれない。
今、ロシアは極寒のシベリアでまさに原始キリスト教団のような団体が活動しているということは、ロマノフ王朝の時代からソ連の時代を経て今なお安定的な社会を模索するロシアの人たちの潜在的な不安が根強いということなのだろう。
政教分離という立場に立てば、宗教による魂の救済が社会全体の問題解決に寄与することは到底期待するべきでなく、あくまである考えに沿って多くの人が思考や行動を変化させることで大きな変化の起こるのをじっと待つといった間接的効果にとどまるはずで、多くはそこまでメジャーな存在になる前に収束してしまう。
宗教の持つ社会性というものは、そもそも信仰心とか非功利的な志向の集まりという、極めて現実の政体とは相容れないところから発生するものだ。
しかし、その組織が大きくなればなるほど運営にかかる間接コストを多くの人で負荷分散することが必要になり、次第に本来の形からは離れて非常に現実的な組織体制を形成するようになる。
そこではいずれ権力闘争も起きるし、派閥や宗派に分かれて相争うことも当然起きてくる。
ここまで成長すると、世俗的な政府や企業とあまり変わらなくなり、結局のところそこでは救済を得られないと判断した人たちが新しい拠り所をもとめて枠から外れていく。
すべてはその数百年、数千年のサイクルにあるように思える。
かつてのキリスト教やイスラム教のように、いつしか政治を支える屋台骨のように宗教が国のトップにしっかりとコミットすることもある。
このロシアの団体がいずれ世界中に拡散し創始者の意思を離れかつての大宗教のように大きく成長するかもしれないと、私はそう思う。
この過程は先ほど述べたように数百年、数千年で起きるわけだから、すくなくとも組織として大いに機能する期間は十分にあると考えるべきだ。
もちろん私自身がその結末を見ることはできないかもしれない。
しかしこの日本の国でも不安を抱えている人が数多く存在し、多くの自殺者まで出している現状をみれば、こののち日本もすっぽりとそうした救済の道の枠組みにハマる虞れだってある。
日本には古来から独自の宗教観があるではないかという意見もあるだろうが、仏壇も墓参りも身近ではなくなった現代日本人には、過去から受け継がれてきたものはそれほど価値を持たない可能性だってある。
世界のどこからどんな”有望”な宗教がやってこないとも限らない。
いざという時、その時に正しい判断ができるよう、宗教についてもっと知識を持ち理解を深めておくことは我々にとって必要なことだ。