6/2といえば、1582年、織田信長で京都の本能寺で横死した、あの本能寺の変が起こった日である。
この一件は小学生の頃に社会の教科書でみて以来、個人的に異常な歴史上のインパクトを放ち続けているのだ。
現在、中京区の寺町御池近くに本能寺はあるけれども、この当時はこの場所でなく、もっと西の方、油小路通付近にあった。
そこは近年の遺構の発見などによって従来イメージされていたような普通のお寺ではなくて、広大な敷地を持ちしっかりした塀や堀で防御可能な造りがされており、洛中にしては珍しいちょっとした砦のような防御体制のとれる状況であったことがわかっている。
そうはいってもこの時信長が連れていたのは僅かな供回りの者たちであり、叛旗 を翻し寺を包囲する明智光秀の軍1万3000を撃退することなどそもそも無理だ。
何が明智をそのような挙に及ぶきっかけとなったのか、その点については様々な説があって決定打がない。
裏を返せば、織田信長という人がそれだけ誰からも浮いた、敵の多い存在であったということだ。
信長と光秀、この二人ほどまったくタイプの違う主従はないと思われる向きは多いかもしれないが、意外に共通点は多いかもしれない。
尾張の守護斯波氏の家老職の家から大名に成り上がった織田氏に対し、明智氏は由緒正しい清和源氏の摂津源氏の流れを汲む土岐氏の支流。
家格の違いはあるとはいえ、家督を盤石なものにするまで一族との争いに明け暮れた信長、そして光秀は斉藤、朝倉、足利など転々と客分のような形で仕えては浪人するという両者とも苦難の若年時代を過ごしている。
言葉よりも荒っぽいやり方で相手を圧倒する手段をと残虐な信長というイメージ が定着しているが、実は歴史や仏教に深い造詣のある面もあり、この点有職故実の世界に生きる朝廷や幕府の側の人間との調整ができる織田家臣団のおそらく唯一の存在であったインテリの光秀とはどこか通ずるものがあったはずだ。
光秀は足利義昭との連携の後から織田の家臣として召抱えとなり他の譜代の家臣をごぼう抜きする形で大出世した。
それだけ有能な人だったのだろう。
しかし、歴史が断片を伝えるように、この主従は結局破綻してしまったのだ。
そのきっかけは家臣団のいる前で信長に侮辱されたとか、家康をもてなす接待役を一方的に解任されたとか、領地替えがあったとか、いろいろな怨恨の証拠が残っているけれど、もっと根本的な処にあったのではないかと思う。
信長が作った安土城は、単なる城ではなく、いわば自分自身が神として君臨する神殿として造られている。
その意味を当時の人が解釈するに、すなわち日本古来からある天皇の権威の否定であり、実質的な王権の簒奪を意味する”罰当たり”な行為であったはず。
その部分が古来の学問・常識の範疇では家中で誰にもひけを取らなかった、秩序と伝統を重んじる光秀の最も大きな懸念ではなかったかと思う。
信長が何をしようとしているのかと公家に問い詰められた時、彼はなんと弁明していたのだろうか。
そして直接的には四国の平定に向けた長宗我部との連携をじっくりと進めてきたのに対し、信長の一存でそれが反故にされそうになった時に暴走する主君を止めなければという決断に迫られたのはないかと思う。
主君を殺してでも秩序を守る。
しかし、早急にその決断に至るのはあまりに不自然だ。
ここまでの間にいくつかの誘いがあったとすればどうだろう。
元の主君の足利義昭、同盟関係だった徳川家康、朝廷、そして堺の商人。
彼らそれぞれに動機がある。
短い蜜月期のあと京から追い出され将軍職を取り上げられた義昭は信長を心底恨んでいる。また、逆に信長が征夷大将軍になったら自分は討伐対象になるのではと恐れていたかもしれない。
徳川は織田と同盟関係といいながら、それは甲斐の武田に対する防波堤であり、 既に武田がいなくなった状況となっては邪魔になるので始末してしまおうと考えていたふしがある。それを家康が感づかないはずがない。
朝廷は望む官位、役職は何でもやろうとまで譲歩していたが、信長は一向に任官には興味を示さず明確な態度を示さない。長年朝廷での地位は無条件にステー タスとして機能していた時代にこれは前代未聞のことだ。
堺の商人はいわば武器の売り買いもすべて牛耳っており、信長との確執から、暗殺しようとしたこともある。より勢力を増す織田の勢力におおいに危機感を募らせていた可能性はある。
これらのうちどれか、あるいは全ての筋からの謀議が光秀の耳に入っていたとしたら、これは「事を起こしてみたらなんとかなるかもしれない」と考え たとしても不思議ではない。
しかし、実際には光秀は信長を討ったあと、このうち朝廷以外の誰に対してもどうやらアプローチはしていないし、京や安土の周辺を行ったり来たりしてモタモタしているうちに秀吉が毛利攻めから大返しで返ってきてしまう。
然るべき統治の正当性を宣言する手を打たなければただの謀反でしかない。それなのに何かこの数日間の光秀の動きはおかしい。
光秀はこの間絶対に固いと踏んでいた細川藤孝との同盟を持ちかけているが、予想に反して細川は賛同しない。
それだけでなく、この期に京を押さえて政権奪取しようという動きに応えるもの が現れない。
要は十分な根回しができてなかったのではないかと思うのだ。
つまり謀反を6/2に決行した事自体はやはり発作的に決断したことではなかったか。
信長を殺す話は内々に持ちかけられていたけれども、これをいつ決行するか明らかに計画にする前に6/2が訪れ、「今がチャンス」と洛中に攻め入ってしまった。
そうすると、そもそも持ちかけたサイドの当の義昭も庇護を受けていた毛利が秀吉の中国攻めで動きが取れない。また、家康も身軽な状態で堺見物中であり、「神君伊賀越え」で命からがら領国に還ったほどだ。まさか軍勢を動かせる立場にない。朝廷と堺に関してはこの間の動きが見えないので何ともいえないが。。。
個人的な想像だが、光秀が思い描いた、本能寺を攻めた後のシナリオはこのようではなかったか。
朝廷より足利幕府の再興の詔勅を引き出し義昭を京に迎え入れる手筈を整える。そこまでが成ればあとは雪崩のように各地の大名が自分に続くであろう。
なぜならば、室町将軍こそが武家の棟梁であり、これを支えることは大義である。。。
決して時間を無駄にはできないのだが、光秀はそうしなかった。
自分に大義があるとの思い込みが強すぎたのかもしれない。ともかく政権を奪取するための有効な手立てを打てなかった。
それが出来なかったところが天下人となるかならないかの器の差だったのかなと思ったりする。
6月というのは、歴史上数多くの戦端が開かれた月でもある。
人の判断を誤らせる、危険な時期なのかな。
この一件は小学生の頃に社会の教科書でみて以来、個人的に異常な歴史上のインパクトを放ち続けているのだ。
現在、中京区の寺町御池近くに本能寺はあるけれども、この当時はこの場所でなく、もっと西の方、油小路通付近にあった。
そこは近年の遺構の発見などによって従来イメージされていたような普通のお寺ではなくて、広大な敷地を持ちしっかりした塀や堀で防御可能な造りがされており、洛中にしては珍しいちょっとした砦のような防御体制のとれる状況であったことがわかっている。
そうはいってもこの時信長が連れていたのは僅かな供回りの者たちであり、叛旗 を翻し寺を包囲する明智光秀の軍1万3000を撃退することなどそもそも無理だ。
何が明智をそのような挙に及ぶきっかけとなったのか、その点については様々な説があって決定打がない。
裏を返せば、織田信長という人がそれだけ誰からも浮いた、敵の多い存在であったということだ。
信長と光秀、この二人ほどまったくタイプの違う主従はないと思われる向きは多いかもしれないが、意外に共通点は多いかもしれない。
尾張の守護斯波氏の家老職の家から大名に成り上がった織田氏に対し、明智氏は由緒正しい清和源氏の摂津源氏の流れを汲む土岐氏の支流。
家格の違いはあるとはいえ、家督を盤石なものにするまで一族との争いに明け暮れた信長、そして光秀は斉藤、朝倉、足利など転々と客分のような形で仕えては浪人するという両者とも苦難の若年時代を過ごしている。
言葉よりも荒っぽいやり方で相手を圧倒する手段をと残虐な信長というイメージ が定着しているが、実は歴史や仏教に深い造詣のある面もあり、この点有職故実の世界に生きる朝廷や幕府の側の人間との調整ができる織田家臣団のおそらく唯一の存在であったインテリの光秀とはどこか通ずるものがあったはずだ。
光秀は足利義昭との連携の後から織田の家臣として召抱えとなり他の譜代の家臣をごぼう抜きする形で大出世した。
それだけ有能な人だったのだろう。
しかし、歴史が断片を伝えるように、この主従は結局破綻してしまったのだ。
そのきっかけは家臣団のいる前で信長に侮辱されたとか、家康をもてなす接待役を一方的に解任されたとか、領地替えがあったとか、いろいろな怨恨の証拠が残っているけれど、もっと根本的な処にあったのではないかと思う。
信長が作った安土城は、単なる城ではなく、いわば自分自身が神として君臨する神殿として造られている。
その意味を当時の人が解釈するに、すなわち日本古来からある天皇の権威の否定であり、実質的な王権の簒奪を意味する”罰当たり”な行為であったはず。
その部分が古来の学問・常識の範疇では家中で誰にもひけを取らなかった、秩序と伝統を重んじる光秀の最も大きな懸念ではなかったかと思う。
信長が何をしようとしているのかと公家に問い詰められた時、彼はなんと弁明していたのだろうか。
そして直接的には四国の平定に向けた長宗我部との連携をじっくりと進めてきたのに対し、信長の一存でそれが反故にされそうになった時に暴走する主君を止めなければという決断に迫られたのはないかと思う。
主君を殺してでも秩序を守る。
しかし、早急にその決断に至るのはあまりに不自然だ。
ここまでの間にいくつかの誘いがあったとすればどうだろう。
元の主君の足利義昭、同盟関係だった徳川家康、朝廷、そして堺の商人。
彼らそれぞれに動機がある。
短い蜜月期のあと京から追い出され将軍職を取り上げられた義昭は信長を心底恨んでいる。また、逆に信長が征夷大将軍になったら自分は討伐対象になるのではと恐れていたかもしれない。
徳川は織田と同盟関係といいながら、それは甲斐の武田に対する防波堤であり、 既に武田がいなくなった状況となっては邪魔になるので始末してしまおうと考えていたふしがある。それを家康が感づかないはずがない。
朝廷は望む官位、役職は何でもやろうとまで譲歩していたが、信長は一向に任官には興味を示さず明確な態度を示さない。長年朝廷での地位は無条件にステー タスとして機能していた時代にこれは前代未聞のことだ。
堺の商人はいわば武器の売り買いもすべて牛耳っており、信長との確執から、暗殺しようとしたこともある。より勢力を増す織田の勢力におおいに危機感を募らせていた可能性はある。
これらのうちどれか、あるいは全ての筋からの謀議が光秀の耳に入っていたとしたら、これは「事を起こしてみたらなんとかなるかもしれない」と考え たとしても不思議ではない。
しかし、実際には光秀は信長を討ったあと、このうち朝廷以外の誰に対してもどうやらアプローチはしていないし、京や安土の周辺を行ったり来たりしてモタモタしているうちに秀吉が毛利攻めから大返しで返ってきてしまう。
然るべき統治の正当性を宣言する手を打たなければただの謀反でしかない。それなのに何かこの数日間の光秀の動きはおかしい。
光秀はこの間絶対に固いと踏んでいた細川藤孝との同盟を持ちかけているが、予想に反して細川は賛同しない。
それだけでなく、この期に京を押さえて政権奪取しようという動きに応えるもの が現れない。
要は十分な根回しができてなかったのではないかと思うのだ。
つまり謀反を6/2に決行した事自体はやはり発作的に決断したことではなかったか。
信長を殺す話は内々に持ちかけられていたけれども、これをいつ決行するか明らかに計画にする前に6/2が訪れ、「今がチャンス」と洛中に攻め入ってしまった。
そうすると、そもそも持ちかけたサイドの当の義昭も庇護を受けていた毛利が秀吉の中国攻めで動きが取れない。また、家康も身軽な状態で堺見物中であり、「神君伊賀越え」で命からがら領国に還ったほどだ。まさか軍勢を動かせる立場にない。朝廷と堺に関してはこの間の動きが見えないので何ともいえないが。。。
個人的な想像だが、光秀が思い描いた、本能寺を攻めた後のシナリオはこのようではなかったか。
朝廷より足利幕府の再興の詔勅を引き出し義昭を京に迎え入れる手筈を整える。そこまでが成ればあとは雪崩のように各地の大名が自分に続くであろう。
なぜならば、室町将軍こそが武家の棟梁であり、これを支えることは大義である。。。
決して時間を無駄にはできないのだが、光秀はそうしなかった。
自分に大義があるとの思い込みが強すぎたのかもしれない。ともかく政権を奪取するための有効な手立てを打てなかった。
それが出来なかったところが天下人となるかならないかの器の差だったのかなと思ったりする。
6月というのは、歴史上数多くの戦端が開かれた月でもある。
人の判断を誤らせる、危険な時期なのかな。