「油を売る」という言葉がある。
無駄に時間を潰したりすることをそのように例えるので、あまりいい使われ方は しない、そういう種類の言葉だ。
江戸時代、家庭用の行灯の油などは油売りといわれる行商人が売って回っていた。
そして、柄杓や漏斗を使って売った油を客の瓶などに移すとき、とろとろと流れ る油がなかなか切れないので、その間暇なので長話に興じたということ から来 ているようだ。
決して油売りが怠け者だったわけではなく、その会話を通じてむしろ高度な営業 技術の激しい戦いが繰り広げられていたのではないかと想像する。
油売りも最初は仕方なくどうでもいい話をしていただろう。
でもやはり話が面白い人の方がより固定客がついただろうし、同業者た淘汰され る過程を見て油を瓶に注ぐ間の”会話”が重要であることに気付いた業 者はそれを付加価値から営業戦略ツールとして洗練させた筈である。
今は行灯も使わないし油の行商人が油を売って回ることもない。
店では大概は容器詰めされたものが売っていて柄杓などで器に注ぐなんてことは ない。
それは「油を売る」ことで得られるコミュニケーションや話術の鍛錬の機会が永久に失われたということを意味する。
行商人が街を普通に歩いていた時代がすべて良かったというわけでもない。
行商の風体を装い空き家を狙って泥棒に入るような輩もいただろうし、強面の物 売りが玄関先に座り込んで強引に売るつける押し売りなんていうのもあって、 これらのリスクは直接コミュニケーションの欠点として存在していたのも事実だ。
今では、業者とは直接顔をあわせることも言葉を交わすこともなく商品をネット で注文したりして、あとは家に届くだけというような関わりも普通になってきた。
これも数年前までは、ちょっと心配だなという心理もあったがその不安も随分なくなった。
これが私だけの感じ方でないことはネット・ショップの数が年々増えていっていることでも明らかだろう。
それだけに、注文したものと違うものが届いた、いつまでたっても届かない、といったクレームも商取引の母数の変化にあわせて多くなる。
国民生活センターのネット通販トラブルの件数をみると、例年17万件超とあり、実際に発生しているトラブルはその何倍にものぼるだろうと想像でき る。
ともかく顔の見えない相手から何かを買うのは嫌だと思っている人も少なからずいるということだ。
見栄えは綺麗だがなんとなく突き放されたような気がする通販サイトに遭遇したことはないだろうか。
生前とならぶ商品のリストには写真、概要、価格が掲載されており、「カートにいれる」のボタンがあるだけ。
その商品が自分にとって価値を生むものであるかどうか、その情報を消費者は求めている。
少しでも安心したいのだ。
ゆえに安心に値する情報が乏しければ、消費者はそのページから離れてネットの検索に移りそこでまた新たなショップを探す。
油屋の例は現代では極端すぎるとしても、ネットの向こうに人が存在しているのがみえると人は安心しやすい。
しかも彼らが顧客に語りかけるのが自分たちの商品への情熱、愛にあふれる言葉であるならば、消費行動に大きく貢献する要因ともなるはず。
そうした業者と消費者との情報交換の場としてサイト上での問い合わせやSNSが活用されているが、むしろこまめに顧客とやり取りをして手堅く信頼 を得やすいのは小規模な事業者であるように感じる。
(大きな事業体はどうしても臨機応変な対応が難しくなるときがあるし、対応するべきトラフィックも極端に集中したりするので均一な品質で対応する のは限界があるのだろう。)
ここに商取引の原点に無意識の回帰があり、やはり取引には直接の対話が重要であることがわかってくる。
効率化だけが成功法則ではない。もう時代は変わっているのだ。
われわれ情報を扱う人間は「人と人をつなぐ」ということを意識してもの作りをして行かないことにはこの先は先細っていくばかりになるかもしれない。
過渡的に、ネットの中に仮想”油売り”が登場して比較的時間のある顧客と世間話をするようなサイトが現れるかもしれない。
まあ、仮想である以上それもすぐに淘汰されるべきものではあるが。。。
結論:油売りは時間の無駄ではないという話。