3.失敗に学ぶ
長々と書いてきた失敗談はここで終わりにして、次は成功に導くための道について考えていきたいと思う。
しかし、立つ鳥後を濁さず - 散文的に書き綴ってきた失敗談をおさらいしてからでもそれは遅くはないだろう。というわけで、いま一度メモを片手に振り返ってみようと思う。そう、何か忘れていることはないか。
情報を正しく伝える
付加価値のあるプロダクトを生み出すために、何を目指しているのか全員が認識を共有することは大前提であり達成するのは容易ではない。ここで言語の壁が大きな障壁となる場合が多く、伝えたいことが伝わらないばかりか、かえって混乱を招くこともおおいにある。
設計書や資料を作成するとき、言語表現上で「ゆらぎ」が発生しないよう厳格かつ表現は平易な書き方を習得する。そのような文書の作成は、簡単にみえて実は結構難しい。
厳格かつ平易に書くということは杓子定規にだらだら書くこととは違う。厳格とはもちろん虚偽の内容が含まれないこと、そして誤解を招く表現がないこと。
一つ一つの記述内容に関して必要な情報量というのは実は思ったほどは多くない。つきつめれば数行でこと足りることもある。正確な情報だからとひたすら文字を連ねて書かれているドキュメントは一見して読む気をなくさせる代物である。読んでほしい内容は何かを整理し、関連する事柄は極力簡潔にするよう構成する工夫が必要なのだ。
そして、平易な表現ということで重要なキーワードはヴィジュアル。視覚的にすぐれている内容ならば多くを文章で語る必要がない。末端の細かいスペックは文字に頼らざるを得ない部分になるだろうが、全体の構成、流れ、関連性、分岐条件などは視覚的に表現するべきものだ。とはいえ、一朝一夕にドキュメンテーションの方法を変えることは容易ではないのも事実だ。ここは試行錯誤が必要になるだろう。
論理の共有
論理を共有することにリスクがあるというより、むしろコミュニケーション上の妥協が発生するリスクがある。もちろん妥協が必要な場合というのもあるかもしれないが、非常に稀なはずだ。私がしたような根気負けは最も愚かな類で、そもそもコミュニケーションで時間労力で根負けするほどの内容は場違いだと認識しよう。前項で書いたとおりここでも視覚に勝るツールはない。数百ページの文章をひとつの図で表現することだって可能だ。手書きの情報の画像でも充分使える。細かい部分のディスカッションをSkypeやSNSなどの場を使って行うのも良しといったところだ。体系立てて情報を整理していく点では不向きだが、離れたロケーションにいる者同志が時間を共有するという点では大きなメリットがある。
躓く石にたとえた大小の誤解のリスクについては、経験値が大きくものをいうので多く自分でも躓いてみるしかないのだけれど、一つ確実なことがある。
期待していたリアクションと違うリアクションに遭遇した場合は問題が何かある。さして困難でもないと思うのに難解だと指摘されたり、そこそこ難解かと思っていたらあっさり理解したという場合など絶対どこかに誤解があるとみるべきだ。そういう躓きの石を敏感に察知する力もまた珠玉の如く価値のあるものなのだ。
全体を俯瞰する
回り道に感じても、全体像を共有することはより複雑かつ規模の大きい案件になればなるほど必要性が増してくる。ここを意識的なハードルに感じて避けようとする傾向があるとすれば残念な話だ。
これこそが最終的にゴールを遠ざけない道なのだ。とはいえ、具体的に実行しようとしたとき、方法はなんでもいいというわけにはいかない。
理路整然として設計資料の類は見た目にすこぶる格好いいが、それだけでは伝わらないものがあるのは事実だ。資料とホワイトボードを武器に何度も悪戦苦闘してきた経験からいうと、一見システマチックでない泥臭いコミュニケーションではあってもそこから得られるものは大きい。
まず自分の言葉で、自分の考えているイメージを伝えるところからまずチャレンジするのがいい。そうして表現の仕方などは経験を踏まえ工夫していくアプローチが現実的だと考える。
「できる」の意味するところ
「できる」「できない」の言葉の意図するところは日本語では曖昧であることを認識しよう。相手のいう「できる」は約束とはならない。このことには十分注意する。また、気質、習慣を含め異文化の世界の出来事である。基本的な考え方・感じ方の領域での違和感はどうしてもつきまとう。許容できるところは許容し、その中で効率的に進めていくスタンスが効果的だ。ずっと長期的に取り組んでいく心積もりならば、最初のプロジェクトで少々躓いてでも得るものは大きいはず。最初感じた違和感が「そう、そうなんだよな」に変わってきたら読めてきた証拠だ。それが歩み寄りというものかもしれない。
チームプレー
日本人は長年の知り合いでも実年齢を知らず、何かのきっかけに「えっ!年下だったのか」と気付くなんてことがある。しかしヴェトナム人は違う。初対面で自分の年齢と相手の年齢を確認する。まず年齢を基準に相手をなんと呼ぶか決めるためにこういうことは起こらない。この世界では関係性というものがまず先行する。このように最初に立場も距離感も決まってしまうという点はアジアではよくあることだが、ヴェトナム初体験の場合は基本として押さえておくに越したことはない。
こうした個人の関係の積み重ねとして出来上がっているチーム、その性格はそれぞれのチームによって異なるものである。従って1つのチームに着目した考察はオールマイティなものではないことは云うまでもな い。
チームとの関わりという点でさらに述べさせてもらうと、あくまでも一般的にヴェトナム人のチームを相手にする場合、外国人である”あなた”とチームとの距離感はおそらく多くの場合において大きな意味を持つだろう。あなたが立ち位置を見つけるためにチームとの距離感を探っているとき、彼らもあなたをじっと観察していることは間違いない。
いずれにしろ年齢の高低、組織上の地位によるルールを基本とした人間関係を意識した振る舞いがその基本ステップになる点は留意するべきだ。逆にルール無視の振る舞いにはさまざまにデメリットがつきまとうので各々賢く判断すること。
不可解な引力
プロジェクトが不可解かつ不合理な引力に弄ばれることはないだろうか。正論では太刀打ちもできず、流されるままになることはないだろうか。これはおそらく世界の共通課題である。まさに強大な敵に挑もうとしているその時、軍は出撃の命令を今か今かと待っている。一方、軍を統帥する立場の人間は戦地とは遠く離れた場所の人間たちと内部の政治駆け引きの真っ最中でその機を見る余裕がない。果たして士気のあがっていたはずの軍は散々に打ち破られ緒戦から見るも無残な大敗北を喫する。そんなケースは歴史上よくある話だ。こうした組織の方向性を大きく狂わせる要因がこの”引力”なのだ。自分がいま下そうとしている判断が、こうした不条理を引き起こすか否かの認識が得られない人は残念だがきっぱり退場いただくか平身低頭有識者に知恵を借りて切り抜けるなどよく考えなければいけない。
目を曇らせないだけの見識を普段からよく養う とりあえずはそれしかない。日々の研鑽は蓄積するとやはり大きくモノをいうわけだ。
以上、とりとめなく書いてきたものをまとめても結局とりとめがないということがわかった。
その時々感じたことをできるだけ率直に書いているつもりだけれどももっとじっくり落ち着いて書き込んでいきたいものだ と反省。